♯001 田中喜義さん

この企画を考えた時に、まっさきに話を聞いてみたいと思ったのが田中喜義さんでした。喜義さんは、輪島の白米(しらよね)千枚田の近くで生まれ育って、千枚田とともに生きてきました。先祖代々この土地を守り続けて、今では千枚田に関わる一番の古株といった感じです。気難しそうに見えて、話すと時折見せる笑顔がチャーミングなおじいちゃんです。田中さんの事は昔から知っていたものの、そういえばきちんと話をしたことはなかったなあと思い、道の駅千枚田ポケットパークでコーヒーを飲みながら、田中さんのルーツをじっくりお伺いしました。
兄妹は10人!大家族の長男として生まれる
ーどんな幼少期でしたか?
父親、母親、ばあちゃん、子どもが10人の13人家族やった。おらの上に長女がおったけど、物心つかんうちに亡くなってしもうた。おらの家は地主として土地をいっぱい持っとったから、生活は豊かな方やってん。家に女中さんもおった。千枚田に田んぼもようけ(たくさん)持っとったし、野菜も自分らで作っとった。魚は名舟(となりの港町)の衆が担いで売りにきとった。

今は猪がいっぱいおるけど、自分が小さい時はこの辺には鹿がおってん。鹿を獲る槍が家にまだある。みんなで山から鹿を追いかけて、海に向かって追い立てる。逃げた鹿は海を泳ぐ。そのうち鹿もたいそうなって(疲れてきて)海から上がってくるやろ、それを槍や弓でトドメをさす。昔は何でも近隣の集落と物々交換したさけ、鹿の肉を獲っては、他のものと代えとったんやろうなあ。

おらが生まれた頃は、とにかくモノが無い時代やった。おらの家は金持ちやったけど着るものも自由に買えんかった。名舟の小学校(3キロ先の小学校)まで裸足で通ったもん。
ー裸足で?!
昔の道路は今みたいなコンクリートじゃなくて海からあげた玉砂利やってん。だから歩けてん。そやけど小学校になって割砂利になったわけや。コンクリートの尖ったやつ。靴は、小学校1年か2年の時は抽選で当たった人だけ買えた。着るものは決まって古着。お金あってもダメねん、品物がないから。ところがおらより2、3年ほど後に生まれたもんはそういう経験がないわけや。昭和26年頃に朝鮮戦争あったがい。(朝鮮戦争:昭和25年〜28年)あの時から日本が景気良くなって品物が回るようになってきた。急激に豊かな時代になったわいね。

千枚田で米を作りながら、肉体労働で大家族を支える
ー米作りを始めたのはいつ頃ですか。
15の時からや。昔から千枚田の田んぼは持っとったけど、父親が農業をしない人やったさけ、ずっと人を雇って作ってもらっとってん。そやけど自分で作れば人に頼まんでもいいってことで、中学出てからは自分でやり始めた。その頃で60アールほどあったかな。作りやすい国道の上のところを自分でやって、残りの田んぼは人に任せとった。ほやけど20歳くらいの時に家が破産してもうて、田んぼの耕作を人に頼まれんくなってん。まだ家族が10何人、家におったさけ、とにかく食べるもんないわけや。自分たちで田んぼして何とか食べる分だけは確保しようと必死やった。下の子らはよう手伝うてくれた。10人もおりゃ朝と夜、米を2回炊かんと足りんかってん。おかずが無かったから、米ばっかり食べとったわい。
ー田んぼのほかにも仕事はしていたんですか。
中学校出てから、父親のすすめで炭焼きも始めた。昔は炭焼きでお金儲けしたって人いっぱいおってん。ほやけど練炭とか流行ってきて、炭があんまり売れなくなったもんで2年ほどで辞めたね。それから採石場で働いた。千枚田の横に山あるやろ、今でも岩肌見えるわい。そこに採石場があってん。石を削り出したり石を運んだり。昔、輪島の水害の復旧(※)で、ものすごい石の需要があってんわ。
(※) 昭和34年8月26日に輪島市街地を流れる川が氾濫した大水害。
ー働きながら千枚田でずっとお米を作ってたんですね
ああいう時代は土方したり百姓しながら働きにいくのが普通やった。ただ、世の中の生活水準が上がってきたら、米だけ作っとっても生活できんなってきた。人と同じ水準の生活をしようと思ったら、現金がたくさんいるようになった。
ー採石場は何歳まで働いていたんですか。
二十歳くらいまで。採石場やめてからは石切職人になった。(石を切り出したり、石を刻んで細工をする職人のこと)3年ほどおったかな。石切職人は2年ほどやって、それから鳶職になってん。その頃、高州園(輪島のホテル)やら学校やら、ビルがいっぱい建つようになってん。それで鳶の仕事も色々あったんや。今は金沢から輪島まで2時間ほどやけど、前は4時間ほどかかった。金沢の業者が輪島まで来れんっちゅうことで、地元の業者に仕事がたくさん回ってきた。22歳くらいから30歳まで続けてん。そしたら今度は鳶の仕事が減ってきたわけや。その時にちょうど郵便局の職員募集しとって、試験受けたらかかって(受かって)30年勤めた。主に配達の仕事。給料が安くて最初の3年ほどは生活苦しかったけど、田中角栄って知っとるやろ。あれで3年ほどで給料が3倍ほどになってん(※)。1年に2回ベースアップあったわ。それで何とか持ち直してん。
(※)当時の総理大臣・田中角栄が施策した公務員給与の大幅アップ

長く千枚田を耕してきた田中さん。世界農業遺産の認定などで能登がさらに注目されるようになってからは観光客も増え、「千枚田で米作りを体験したい」という県外のオーナーも年々増えています。観光のイメージが強い千枚田ですが、昔はどんな場所だったんだろう?
ー千枚田は昔、白米町の人たちだけで作ってたんですか?
明治になってから白米町の百姓が減って、三分の一ほどは深見町と野田町(近隣の集落)から来て作るようになった。そのうち機械が流行ってきた。耕運機とか、小さい機械買って皆んな田んぼを作るようになった。おらが30歳くらいの時は 千枚田は18件ほど。野田からも2、3人来とった。海岸までずーっと田んぼあったよ。30年ほど前までは、今の千枚田の倍ほどの面積あった。
ーどんな気持ちで千枚田で米作りを続けてきた?
昔からやってきたことやさけな、特別な理由なんかないわい。漁師や魚とるのと同じで、うちらは米作っとっただけ。昔は大変ちゅうことなかってん。大人数でやるから。畦塗りぐらいは大変やったけど。ほやけど機械が流行ってきたら、名舟や白米の小さい田んぼ、みんな嫌がるようになった。でかい田んぼならトラクターでガーッと行ける。白米の田んぼは小さいし機械はいらんやろ。畦も付けんならんし。農業の世界に機械入るようになったらみんな副業っちゅうか、済んだらどっかすぐ仕事探して、外で仕事するようになった。仕事に行けんくなると困るさけ、大変な田んぼは皆したくなかったんじゃないけ。
千枚田は「命を守るため」作られてきた
千枚田は、貧しいさけ作ったって言われとるけど、実際は加賀藩が米を献上させるために無理矢理作らせとったわけで、好き好んで作ったわけではないげ。米作ってもある程度、殿様に取られてしまうから。生活の苦しさから千枚田作ったって言われとるけど、江戸時代はこの辺はものすごい恵まれとってん。塩を作っとったやろ。塩を米の代わりに献上できたさけ。昔は米を作っても、ほとんど加賀の殿様に取られるっていうので、江戸時代はあんまり作ってなかった。ヒエとか粟を作って、それを飢饉に備えて貯蔵しとった。だから千枚田を作らんでも生活できてん。昔から「百姓は生かさず殺さず」っていうし。語ることと現実が違うとるわけや。命欲しいさけ作っとるわけやわな。
米作りは水が何よりも大切。水持ちを良くするために昔は畦塗りを2回やってん。そしたら畦や土手から水が漏れていかんやろ。水(充て)の当番がおって、用水の水を雨降ったら止めて、晴れたら流す。用水がある山の奥までずーっと田んぼあったさけ、みんな毎日水を見とったわけや。集落でお金払うて雇っとってん。

ー今は千枚田でどのくらいの田んぼをやっているんですか?
今は弟と10枚ほどやっとる。大きい田んぼもあるし30アールくらいにはなる。その前までは250枚しとった。大体水がないげ。川もなかった。谷が深い。海から用水、つつみ(溜池)作ったりして。谷底は川から水あげやすかった。
今日どう生きるか。難しいことは考えん。
昔は南志見で有名な地主三本の指に入っとったけど、父親が仕事もせず先祖からもらったもを全部売り払った。昔は生きるために何も考えんとひたすら生きてきたって感じや。そんな難しいこと考えん。余裕ないもん。飯食うためには何でもやらんなん。何でも考えるっちゅうことはほんだけ平和や。人間追い詰められると考える余裕なんてないげ。今日どうするかやわい。20年30年後のこと考えても仕方ない。今日どうするかや。分かるやろ。
おらは、普通の人から見たら「へそ曲がり」なげん。人生観が全然違う。天と地獄をみた。二十歳くらいまではみんなから、様様と育ったわけや。それが25、6から後は、みんなでよってたかって叩かれた。今まで地主で権力もあったさけ、おもしねえわけや。
人の面倒みてもいいけど、それが立派に自分が面倒見られる立場になると、面倒みてやった人の足引っ張るげ。俺はそんなんようけ見てきたさけ、へそ曲がりなんやな。人生観が違う。普通のもんと。幸か不幸か、上と下を両方経験した。
そんなに周りの人の対応が変わったんですか?
人間ちゃ弱い生きもんやわい。相手が自分より弱くなると、向かってダラって言ったり、態度が変わるげんね。まあ、人間ちゃ弱いもんやわいね。うちらの代は、自分が苦労したもんで子供には苦労させたくない、それが悪い方にいったわな。シャバはそんな甘くない。シャバはみんな親じゃない、親以外、他人やもん。20年後どうなるかわからん、結局そういう人間が増えていく。おらみたいな、おらより上の世代が苦しい時代を経験して支えて、世界の大国に戻したわけやな。今の孫の世代になれば全然そういう感覚ないから怖いなと。あんたらの子供の時代は怖いと思うぞ。
色んな話を思い出しながら、しみじみと話してくれた喜義さん。お話を聞いた中で、経歴をまとめてみました。
1941年 0歳 輪島市白米町で11人兄妹の長男として生まれる(昭和16年7月31日生)
名舟大祭の帰り際に母が産気付き、名舟の産婆さんに取り上げてもらう
1948年 7歳 名舟小学校入学
1956年 15歳 千枚田で米作りを始める
炭焼き🌲🌳の仕事を始め、兼業農家に
その後、採石場で働く
1958年 18歳 隣のおじいさんが仲人となり、鴻巣地区の女性と結婚💑
1960年 20歳 長女誕生👧
1962年 22歳 長男誕生👦
石切職人になる
1970年 30歳 次男誕生👦
郵便局📮に就職。配達員として勤務
1973年 33歳 次女が誕生👧
2000年 60歳 郵便局を定年退職
それからずっと、千枚田の耕作を続けている🌾🌾🌾
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